織物製品(西陣織とは)

約550年の歴史を持つ西陣織は、ここ京都に都が置かれた時から始まります。そして室町時代の応仁の乱以降、戦後復興をなした職人たちが東西に分かれて戦っていた西の陣地があった場所で織物の生産を再開したところから、この名前があります。それ以降、この地で発展した織物業を総称して西の陣地、すなわち「西陣」の名前で呼ばれるようになりました。

西陣織の特徴は、この地に根ざした様々な職人がそれぞれの専門を受け持つ形での分業化(専門化)が進みました。糸の仕入れ問屋・糸の染色職人・そして織物の専門職人・織物問屋と、各自が各々の特技を活かしてより高度な技術を身に着けて発展しました。だからこそ西陣では多種多様な織物が存在し、特殊な物や、それまで不可能だった製品も生産可能となり日本国内でも高い技術レベルを持つに至りました。西陣織はそんな専門集団が集まる産地で生まれます。

(写真 わき善織物・協力 小林練染工場・有限会社寺井染工)

 

織物の種類

夏の定番・紗(Plain gauze)

無地紗・紋紗(Plain gauze)

夏用の生地として、風通しの良いレースのような織物が開発されました。それは紗や羅と呼ばれ、従来の物とは区別され「捩り織」と称されました、これは振機(フルエ)と呼ばれる特別な装置によって縦糸がその隣の一本を跨いで絡み目を作り透けて見えるような風合いを見せる織物です。四季のある日本の気候(特に梅雨から夏にかけて)にあわせすごしやすくするために開発された日本独自の織物です。その繊細な仕上がりから現在でも軽量で尚且つ肌ざわりの良いものとなっています。

これら夏物の紗や紋紗は高度なテクニックを必要とされ古来からの特別な技法「濡れ緯(ヌレヌキ)」など日本人のもの作りの知恵を活かした特殊な織り方を西陣ではしてきました。

西陣織でポピュラーな綾地織( Twill Weave)


 

紋織り( ジャガード織り)

古来より布に模様を施す技法は様々に発明され今日に至ります。紋織り技法はその中でも高度な技法を用い、織物に立体的な模様を付けることによりそのデザイン性を発展させてきました。このような織物を紋織りと呼び、古来より日本では貴族や宮廷で親しまれ、日本ではその起源は奈良時代まで遡るとされます。都が現在の京都・平安京に移された折に貴族文化と共にさらに様々な文様が生み出されました。(平安文様)

また近年にはナポレオンの時代にフランスのジャカールが開発したジャガード装置を完成させました。これが明治時代に日本にが導入され、その後、日本独自の発展を遂げます。

 

 

糸 (天の虫・・・蚕)


滋養強壮に使われるドリンク、「ユンケル黄帝液」を御存知だろうか…。

中国の神話上の三皇五帝の一人である黄帝は、神話の時代(紀元前2510~紀元前2448年)の王として知られる。この黄帝は中国における東洋医学の祖としても知られ、日本の「ユンケル黄帝液」はこの黄帝の名が由来となっている。
ある日その妃である西陵氏が庭でお茶を飲んでいる時に、お茶の中に繭が落ちてきてこれを取り出した時に繭が糸になる、これを宮廷で飼うことを黄帝に頼み、それが養蚕の起源だと中国の伝説では語られている、これが約5千年前のことだったとされている。その後中国では絹糸は、盛んに作られるようになり、釣り糸、弓の弦、楽器の弦など織物以外にも使われ始めました。紀元前3~紀元後3世紀までには、中国では絹糸が普遍的な素材となり税金の支払いや、役人の給料にもこの絹が使われるほどでした。古代中国の旧暦三月は「蚕月」と呼ばれ蚕の繁殖が始まるとされていました。またこの皇后・西陵氏を「絹の女神」として祭日には祭壇に繭が捧げられたそうです。

紀元後2023年を経た今では、この蚕と言う虫は人の手で育てていく以外に生きられない虫(家蚕)としても知られています。太古より人の手で作られた自然界で野生虫としては生きていけない虫…。いわゆる蚕は人間としか共生できない虫なのである。


《絹の道》
蚕の起源は、約1万5千年前とされ、そのルーツは縄文時代の野蚕まで遡ると言われ、その後、野蚕から人が飼育する家蚕となり、人類の家畜の一種になったとされた。人類にとっては家畜化した生物のなかで犬より古い最古参である。
中国の前漢(紀元前206年-8年)の時代には既に蚕屋での保育方法や蚕玉子の保管がされており、現在の四川省あたりでは絹の生産が始まっていたことが知られています。
その為、シルク(絹)は古来より人の手のうちで培われ、その起源もアジア地域が有力とされるのは、 遠くユーラシア大陸を繋ぐシルクロード(絹製品を主にした交易路)としても知られ東西を行き来する交易の品として世界中へと伝播していったことからもあきらかである。